GLORY DAYS

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巨人豊田誕生

巨人豊田誕生「自分を追い込む」

思わずため息をついてしまいました。
「安住の地よりもプレッシャーのかかる中で、自分を追い込んだ方がいいと思った」というのは
「ぬるま湯から脱却したい」と言って巨人へ移籍した江藤智と重なるので。

来年から、巨人ー広島戦を見るのが辛くなりそうだ。いや、カープが勝てば問題ないか。
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やる気の無い日

刑事政策というか刑事訴訟法関係のゼミに所属しています。
実際にあった冤罪事件から刑事手続きの流れを学習中。

昨日は、一審判決後、被告人側が控訴するという部分から。
「控訴は事後審である」という話になりました。

面倒なので詳細は省きますが、要するに教授が学生に質問する訳ですよ。
教授「・・・では、事後審とは何ですか?」
他の学生の答えは、的を得ていないというかグダグダだった訳で。
そして、私に回ってきたと。

教授「事後審とは?」

M・K「一審判決を踏まえて、その判決に二審担当の裁判官が誤りが無いかを検討する。
    つまり、最初から結論ありきの裁判です。」

教授「それは調べていない人の答えだね。どうして調べて来ないの。(からかい半分の口調で)」

M・K「いや、まあ。(笑って流す)(今週はレジュメ担当じゃないからやる気なくて。)

やる気の無い日のゼミ答弁なんてこんなもん。

広島、ラロッカら3外国人選手を解雇へ

広島、ラロッカら3外国人選手を解雇へ

ラロッカは当初出されていた残留確定の方針(記事最下部)から一転して解雇。

今季怪我が多かったこと、1・3塁の選手が飽和状態のチーム事情を考えた結果だろうか。
そうだとすれば不可解とまでは言わないが、それでも解雇するのは惜しい気がする。

デイビーは2年続けて解雇されるという珍しいことに。
前西武のスコット・マクレーン?

レイボーンは打ち込まれると止まらない印象があった。解雇もやむなしか。
首脳陣の継投に問題もあったけど。

人間は感情の生き物だそうですが

今朝はJRの人身事故のために、1時間以上の遅れを食らって予定がガタガタに。
不機嫌なことこの上なかったが、女の子から何気ないメールを1通貰って気分が和んだ。

・・・我ながら単純だと思う。(苦笑)

その直後に、どうでもいい下らない話を真剣に話しかけてきたド阿呆のせいで和み気分も一気に吹き飛んだけどな!

2005年のカープを淡々と振り返るよ

弧空の彼方へのtugendさんが主催の企画に参加します。

1.今年活躍したと思うカープの投手(3名まで)
トム・デイビー
04年オフに右肩の故障を理由に解雇も、一転テスト入団で復帰。
見方の援護がない試合も多々ありましたが、先発投手としてよく投げたと思います。
どういう訳か今季限りと言う話が聞こえてくるのですが。

ジョン・ベイル
今季から抑えに転向して出番が少ない中24S(26SP)の成績は立派だと思います。
来季はもう少し劇場を減らしてくれるとありがたいです。(笑)

3人目は…選出者なしですかね。
一般論からすれば黒田と書くべきなのかもしれませんが…。
私まで黒田と書いたら面白くないでしょう。

2.今年活躍したと思うカープの野手(3名まで)
前田智徳
説明不要でしょう。(ダメですか?)

山崎浩司
尾形が負傷離脱後、空いたショートには誰が入るのか、と注目されていましたが
菊地原とのトレードで移籍してきた山崎でした。
安定した守備とバントで2番打者としてチームに貢献。

全くの蛇足ですが、西武の上田浩明を見ているために、
他のファンの方が「山崎の打率が2割を超えた!」と盛り上がっていても
ついていけませんでした。(苦笑)

倉義和
石原が開幕前に負傷して、正捕手はどうなるのかと思われましたが
結果は倉の圧勝と言っても過言ではないと思います。

3.今年印象に残ったカープの試合(3試合まで)
7月3日 広島4-1巨人
長嶋茂雄氏が観戦するということで注目を集めましたが、ロマノが8回1失点の好投。
簡単に噛ませ犬にはなりません。

9月10日 広島2-21阪神
恐らく、今シーズンのワーストゲーム。
広池の1イニング8失点自責点0は何かの間違いですか?

4.今年もう少し頑張って欲しかったカープの選手(3名まで)
佐々岡真司
シーズン当初は先発で起用されるも、結果が出ず中継ぎに配置転換。
個人的には先発の一角として期待していたので残念でした。

高橋建
佐々岡とほぼ同じコメントになります。(苦笑)
開幕時は実質唯一の先発左腕投手だっただけに、今季の不調はなおさら残念。

ファン・フェリシアーノ
ドミニカンを挙げるのは、お家芸です。(笑)
2軍では好成績を残しているようですが、1軍では実力が発揮されず。勿体無いですね。

5.来年の活躍を期待しているカープの選手(3名まで)
広池浩司
今シーズンのような、見境の無い起用をしなければもっと良い成績を残せるはずです。
巷でも頻出ですが、広池は先発で見てみたいです。

6.カープ関連の新語・流行語大賞ノミネート用語(3つまで)
「広島の主力といえば宮島です。」
JRの野村謙二郎が写っているポスターからです。

7.カープ系ブログの中で印象に残ってるエントリー(3つまで)
すいません。ちょっとすぐに浮かばないので…。

8.カープ以外で、今年表彰したい選手・チーム(1人・1チーム)
選手:土肥義弘
我ながらひねった回答だと思います。(苦笑)
見ていて頼もしい巨人キラーぶり。
来季から巨人はローズがいなくなるので、ちょっと土肥には不利になるか?

チーム:千葉ロッテマリーンズ
31年ぶりにパリーグを制覇。完敗でした。(当方西武ファンゆえ)

9.今年のカープに一言
まさか、ここまで低迷するとは思わなかった…。

10.来年のカープに一言
落ちるところまで落ちたのだから、あとは浮上するのみ!

以下にテンプレを置いています。 【“2005年のカープを淡々と振り返るよ ”の続きを読む】

一見無傷も

携帯電話を落とした時に、いつもと違うガシャンという音がした。
すぐに調べて本体に影響が無いことを確認した・・・がストラップが全壊していた。

key.jpg


よく見ると、プラスチックで出来ているカバーにヒビが入っています。
中に入っていたジェルらしきものも流出。

明治国家の再編・国会開設まで

明治政府は当初、新政府樹立に力を尽くした薩長土肥の4藩出身者が
実権を握ったので藩閥政府と言われた。
明治維新の改革で、従来の身分的特権が無くなった士族の不満は高まり、
その不満を解消するために西郷隆盛や板垣退助らが中心となり
征韓論を展開した。しかし内治優先論を説く大久保利通らの反対により実現せず、
西郷や板垣など征韓派は下野(げや:官職を辞して民間人になること)した。

新政府のやり方に不満を持つ士族のなかには、反政府的暴動を起こすものもあったが、
1877年に西郷隆盛が中心となって起こした西南戦争を最後に武士による反乱はおさまった。

板垣は1874年に民撰議員設立の建白書を左院に提出し、藩閥専制を批判して
国会の設立を求めた。これがきっかけで、自由民権論は急速に高まった。

板垣は同年土佐に帰り、立志社をおこす。立志社は後年愛国社を経て、国会期成同盟へと
発展していき、最終的には1881年10月に板垣を総理とする自由党が結成された。

自由民権運動の高まりを前にして、政府は内紛を生じ、
大隈重信は国会の即時開設を主張し、伊藤博文はこれに反対した。
また、1881年7月に発覚した開拓使官有物払下事件で藩閥政府攻撃の世論は高まり、
自由民権運動はいっそう激しくなった。政府は大隈重信をこの世論と関係があるとみて罷免し、
10年以内(1890年)に国会を開設すると公約した。(同時に払下の中止も決定。)

立憲政友会の成立

国会開設の時期が決まると、1882年には大隈重信はイギリス風の議会政治を主張する立憲改進党を結成した。板垣の自由党は主として地方農村を基盤とし、改進党は都市の実業家や知識層に支持された。

1890年に行われた日本最初の衆議院議員総選挙では旧民権派が大勝し、
自由党と改進党などの民党が衆議院の過半数を占めた。
これに対抗して政府側は、1889年の憲法発布直後に黒田清隆首相が
「政府の政策は政党の意向に左右されてはならない」という超然主義の立場を声明していた。

1890年11月に行われた第1回帝国議会でも、山県有朋首相は超然主義の立場を守ったため、
予算問題で民党から攻撃されたが、自由党の一部を買収して予算を成立させた。

続く第2議会では、松方正義内閣が「行政費節減、地租軽減・地価修正」を主張する
民党連合と衝突し、衆議院を解散したが1892年の第2回総選挙でも
民党優位を覆すことは出来ず、また選挙干渉問題が表面化したこともあり
第3議会終了後に退陣した。

ついで成立した、第2次伊藤博文内閣は民党第一党の自由党に接近し
1893年には天皇の詔書の力もあって海軍軍備の拡張に成功した。
1896年に後を継いだ、第二次松方内閣も進歩党と提携して軍備を拡張した。
しかし、1898年に成立した第三次伊藤内閣は、陸・海軍の軍備拡張要求が
更に強くなったので、地租の増徴案を議会に提出した。
初期の議会以来、地租の軽減を要求してきた自由・進歩両党は、
これに反対を表明し合同して憲政党を結成した。

衆議院に絶対多数を持つ合同政党の出現により、伊藤内閣は退陣し、
我が国で初めての政党内閣である第一次大隈内閣が成立した。
しかし、文部大臣の尾崎行雄が共和演説事件で辞任すると、後任を巡って対立し、
わずか4ヶ月で退陣した。

かわって第2次山県内閣は憲政党(旧自由党)の支持を得て
憲政本党(旧進歩党)の反対を抑えて地租増徴案を成立させた。
また、1900年には政党の力が軍部に及ぶのを阻むために軍部大臣現役武官制を定めた。
(現役の大将・中将以外は陸・海軍大臣になれない。)

このような一連の政策に批判的になっていた憲政党は、
政党結成を目指していた伊藤博文に接近し、1900年に立憲政友会を結成した。
伊藤は政友会を率いて第4次内閣を結成したが、増税案を貴族院に反対され退陣し、
1901年に第1次桂太郎内閣が成立した。これ以降、桂太郎率いる官僚・貴族院勢力と、
伊藤の後を受けた西園寺公望を総裁とする政友会とが政界を二分した。

桂園時代~米騒動

1904年の日露戦争後、鉄道や港湾の拡充をかかげる立憲政友会が、
地方の有力者の支持を得て勢力を伸張し、1906年には西園寺公望が桂太郎に代わって内閣を組織した。
しかし1907年の恐慌によってこの政策が行き詰まると、官僚勢力と貴族院を背景とする桂太郎に再び政権を譲った。(第2次桂内閣)
桂内閣は内務省を中心に地方改良運動を推進して、
町村の租税負担力を強化し、国家の基礎を固めようとした。
一方、桂は政友会に対抗するために政友会以外の政党の合同に期待したが
政友会の反発を買い、1911年、再び西園寺に内閣を譲った。

この頃から日本の財政は非常に悪化しており、行政・財政の整理は避けられない状態にあった。
しかし、陸軍は治安維持も兼ねて朝鮮に駐屯させる2師団の増設を政府に迫った。
(1910年に日本は韓国を併合(植民地化)していた。)

政党に基礎を置く内閣と軍部が対立するなか、美濃部達吉が政党内閣を支持する憲法論を発表し、世論は立憲政治の大切さに目覚め、陸軍の横暴に怒りを覚えた。
このようななかで、1912年年末師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して
陸軍大臣が単独で辞表を天皇に提出したため、西園寺内閣は退陣に追い込まれた。
(軍部大臣現役武官制の制度により、軍部が陸軍大臣を推薦しなければ内閣が組織できなかった。)

西園寺の後を受けて、内大臣と侍従長(天皇を補佐する役目)を兼任していた桂が
第3次桂内閣が組織されたが、宮中と政治の境界を乱すと非難の声が上がり
立憲国民党の犬養毅や立憲政友会の尾崎行雄を中心に
「閥族打破・憲政擁護」を掲げた運動が全国的に広がった。(第一次護憲運動)

1913年2月、第3次桂内閣は総辞職した。その後には海軍大将・山本権兵衛が組閣し、
政友会が与党となったが1914年に海軍のシーメンス事件(ドイツの兵器会社からの軍艦購入をめぐる汚職事件)により総辞職した。

陸軍師団の増設を求める元老(げんろう:非公式に天皇を補佐する役職)や陸軍は
言論界や民衆の間で人気のある大隈重信に内閣を組閣させ、政友会に打撃を与えようとした。
大隈は陸・海軍と内閣との調整をはかり同年末に衆議院を解散した。
1915年に行われた総選挙では、立憲同志会らの与党が政友会に圧勝し
師団増設案が議会を通過した。

1916年に大隈内閣が総辞職すると、軍人で長州出身の寺内正毅が超然内閣を組閣した。
立憲同志会など前内閣の与党各派が合同して憲政会を結成してこれに対抗すると
寺内首相は1917年に衆議院を解散した。
総選挙の結果、立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。

米騒動~政党内閣の成立

第一次世界大戦による経済発展で、工場労働者の増加と人口の都市集中に伴う
米の消費量の増大や、1918年のシベリア出兵にからむ米の買占めにより米価が急騰すると
米騒動が全国的に広がった。
政府は米騒動の鎮圧に軍隊を出動させたが、内閣批判の声が高まり総辞職した。

米騒動という形での民衆運動の盛りあがりに直面して、元老山県有朋が
政友会のもつ統合力に期待したため、1918年に衆議院の第一党である
立憲政友会の総裁・原敬を首相とする内閣が成立した。

原敬は華族でも藩閥でもない初めての首相だったため、
平民宰相と呼ばれ国民各層から歓迎された。
原首相は、鉄道の拡充や高等学校の増設などを、積極政策に基づき進める一方で
憲政会や立憲国民党などの野党が要求する普通選挙法案を
時期尚早であるとして退け、小選挙区制を導入し、選挙権の納税資格を
直接国税3円以上に引き下げ、有権者を拡大したにとどまった。
(それまでは、25歳以上の男子・直接国税10円)

しかし、1920年の戦後恐慌により積極政策が行き詰まったことや
立憲政友会の関係する汚職事件も続発して(東京市会疑獄事件など)
世論の不満が高まるなか、1921年原首相は暗殺された。

1924年に清浦奎吾が貴族院議員を中心に内閣を組織すると、
憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の3党(護憲三派)は超然内閣の出現に反対し、
政党内閣制・普通選挙の実現を主張して憲政擁護運動を起こした。(第2次護憲運動)

政府は、政友会脱党者が組織した政友本党の支持を得て総選挙にのぞんだが、
護憲三派の圧勝に終わり、清浦内閣は総辞職した。
この結果、衆議院第一党の憲政会総裁の加藤高明が3党の連立内閣を組織した。

加藤内閣は、1925年に納税額にかかわらず満25歳以上の男子に選挙権与える
普通選挙法を成立させたが、その一方で「国体」(天皇が統治する国家の在り方)の変革や
私有財産制度否認を目的とする結社の組織や参加者を罰する治安維持法を制定した。
(共産主義者を取り締まるため)

立憲政友会が陸軍の田中義一を総裁にむかえて、革新倶楽部と合併すると
護憲三派の提携は崩れ、加藤内閣は憲政会の単独内閣となった。
その後、加藤の病死によって1926年に憲政会総裁の若槻礼次郎が内閣を組織した。

1927年に若槻内閣が台湾銀行救済問題で退陣すると、政友会総裁の田中義一が内閣を組閣し、野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結成した。

これ以後、1932年に犬養毅内閣が倒れるまで、政友会と民政党の総裁が
交互に内閣を担当する二大政党制時代が続いた。(憲政の常道)

ファシズムの基盤の形成

日本経済は、1929年10月にアメリカで始まった世界恐慌と、
1930年1月に実施された金解禁による不況とあわせて二重の打撃を受けることになり
深刻な不況状態に陥った。(昭和恐慌)

輸出が大きく減少し、企業の操業短縮・倒産が相次ぎ産業合理化によって
賃金引下げ・人員整理が行われて、失業者が増大した。
恐慌が発生すると各種農作物の価格が暴落し、不況の為に兼業の機会も少なくなり
都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家の生活は困窮し欠食児童や、女子の身売りが続出した。

政府は、1932年から公共土木事業を行って農民に現金収入の手段を与えたが
満州事変のために1934年で打ち切りになり、産業組合を中心に農民を結成させて
「自力更生」をはからせる農村漁村経済更正運動が中心になっていった。(政府は予算が無く、国民に任せる形となった)

昭和恐慌が深刻化していく中で、浜口雄幸内閣はロンドン海軍軍縮条約を調印・批准させたが
これに反対する軍人や民間右翼の間では、日本の行き詰まりが元老・重臣・財閥・政党などの
支配層の無能と腐敗になるとしてこれらを倒して軍部政権をつくり、内外政策の転換を図ろうとする動きが目立つようになった。

1931年の3月と10月には陸軍の青年将校らが、軍部政権の樹立を目指すクーデターを計画したが、いずれも未遂に終わった。(三月事件・十月事件)
1932年には右翼団体・血盟団により、前蔵相の井上準之助と三井財閥幹部の団琢磨が暗殺された。(血盟団事件)

さらに1932年5月15日、海軍青年将校・陸軍士官学校生徒らの一団が犬養毅首相を暗殺した。(5・15事件)

この事件の後、海軍の長老斎藤実が政権につき「非常時」の名の下に政界・財界・軍部などで
構成される挙国一致内閣を組織した。ここに大正末以来8年で政党内閣は崩壊し、
太平洋戦争終了後まで復活しなかった。

15年戦争

1931年9月18日、関東軍の参謀・石原莞爾は柳条湖で南満州鉄道を爆破し、
これを中国軍のしわざとして軍事行動を起こした。(満州事変)
この事態に第2次若槻礼次郎内閣は不拡大方針を決めていたが、関東軍はこの決定を無視して、占領地を拡大した。一方、中国の国民政府はこれを日本の計画的侵略であるとして国際連盟に提訴した。これに対して関東軍は1932年3月、清国最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政にして「満州国」の建国を宣言した。

満州国の建国を巡り、1933年リットン調査団の勧告により、満州国からの撤退を求められたが
日本はこれを拒否し、同年3月、正式に国際連盟から脱退した。
また、1936年にはワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約から脱退した。
こうして日本は国際的に孤立することになった。

陸軍では天皇を中心に国民を精神的に統合して「昭和維新」を目指す皇道派と、
官僚や財界と協調して合法的に国家統制を目指す統制派が対立していた。
1936年2月26日、皇道派の青年将校が約1400名の下士官・兵士を率いて、蔵相・高橋是清や内大臣・斎藤実らを殺害し、首相官邸や国会議事堂を占拠したが、反乱軍として鎮圧され、
国家改造・軍部政権樹立を目指すクーデタは失敗に終わった。(2・26事件)

軍の主導権を握った統制派は、この事件後に成立した広田弘毅内閣の人事に干渉するようになった。広田内閣は軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備を拡張するなど、戦時体制を整えていった。しかし、国家改造に着手しない政府に不満を唱える軍と、軍備拡張が国際収支の悪化をもたらしたと非難する政党との双方の反発で1937年1月に総辞職した。
後任の組閣の大命(天皇の命令)は陸軍穏健派の宇垣一成に下ったが、軍部は宇垣に反対して陸相を推挙せず、宇垣内閣は不成立に終わった。
結局、林銑十郎内閣が成立し、軍部と財界の協力体制を作り上げたが総選挙で大敗し、
6月には近衛文麿が内閣を組織した。

近衛内閣成立直後に発生した盧溝橋事件で、政府は当初戦争不拡大の方針をとったが、軍部強硬派の圧力もあり、方針を変更して兵力増派を決定した。1938年1月には「国民政府を相手とせず」と声明を発表し、和平交渉の道を閉ざしてしまった。

準戦時体制の長期化に伴い、自由主義的思想の弾圧もいちだんと厳しくなり、内閣の強化、
政治勢力の一元化、全国民の協力体制の確立などの必要が主張されるようになった。
そして国民精神総動員運動が展開され、産業報国会が工場や鉱山などで結成された。
1938年4月には、政府が議会の承認なしに勅令(ちょくれい:天皇の命令)で物資・物価・労働力・賃金・資金・出版などを軍需のために優先させて独占的に運用・統制できる国家総動員法が制定された。
1939年には一般国民を軍需工場に動員する国民徴用令も制定された。

1940年6月、近江文麿首相はナチス・ドイツのように「一国一党」的で親軍的な新しい政党を組織することを目指し(新体制運動)、10月には大政翼賛会を組織した。
このため、これまで存在していた政党が非合法とされ、解散させられた。

1941年、第2次近衛内閣は悪化しつつあったアメリカとの関係を調整するため日米交渉を開始した。交渉は難航し、10月上旬を迎え近衛首相は日米交渉の妥協点の一つである中国からの撤兵に反対する陸相・東条英機と対立し、総辞職し、かわって東条内閣が成立した。
12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカ、イギリスに対して宣戦布告し太平洋戦争が開始された。

1942年4月、東条内閣が翼賛選挙を実施した結果、政府の援助を受けた推薦候補が絶対多数を獲得し、当選議員のほとんどを含む唯一の政治結社として翼賛政治会が結成されたが、
議会はごく少数の反対派を除き、政府つまり軍部の提案に賛成する機関となった。

1942年6月にミッドウェー海戦の大敗北を転機として、戦局は次第に不利に転じ、
この年後半からはアメリカの本格的反抗が開始された。

1943年には理工系・教員養成系以外の学生の徴兵猶予も停止された。(学徒出陣)
13万人が戦地へ赴き、1割以上は戦死した。

1944年、日本の「絶対国防圏」であるサイパン島が、アメリカ軍に占領された。
この敗北がきっかけで7月に東条内閣は総辞職した。

敗戦

1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、敗戦が必至となったこの段階で
戦勝終結の任務を期待された鈴木貫太郎内閣が成立した。
5月にはドイツが無条件降伏し、日本は孤立した。軍部は「一億玉砕」「本土決戦」を唱えたが、
鈴木内閣はソ連を仲介に和平工作を進めようとした。
しかし、2月の時点でアメリカ・イギリス・ソ連の3カ国はヤルタで首脳会談を開き、
ソ連の対日参戦を密約していた。3国は7月には、ベルリン郊外でポツダム会談を行い、
アメリカ・イギリス・中国の3国の名で、日本の戦後処理方針と
無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。

「国体」護持を巡って日本政府が対応に苦しむ間に、
アメリカは8月6日に広島、9日には長崎に原爆を投下した。
また、ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して8月8日に満州・朝鮮に侵入した。
こうした情勢の下で、8月14日の御前会議でポツダム宣言を受諾し、
無条件降伏することが決まる。翌15日、日本の降伏が天皇から
ラジオを通じて国民に発表され、太平洋戦争は終戦を迎えた。

大東亜共栄圏

政府は太平洋戦争の目的を、欧州列強の支配からアジアを開放し
新しい秩序の「大東亜共栄圏」を建設することだと強調した。
しかし、実際は軍事占領の当面の目的が戦争のための資源獲得にあり、
そのため、現地の歴史や文化を無視した軍政当局が、日本語の教育や神社参拝の強要、
強制労働、集会の禁止などの施策をとった。

中国や東南アジアでは、食料・石油・ゴム・木材・鉱石などを
強制的に取り立て労務者を集めた。
占領地域の物資は日本軍が発行する軍票(戦地での紙幣の代用)によって奪われた。
食料の強制的な取立てや、戦禍による国土の荒廃に自然災害が加わり、
各地で餓死者が出て、特にベトナムでは200万人に及んだといわれる。
マレー半島では、華僑が中国の政権を援助しているとして4、5万人ともいわれる人々が殺害された。

朝鮮では「皇民化」政策をすすめ、日本語の使用や名前を日本式に改める創氏改名を強要した。
朝鮮内の軍需工場で低賃金で雇用したほか、約70万人を日本本土に強制連行して
過酷な条件で危険な作業に従事させた。また、多くの女性が挺身隊に集められた。
朝鮮をはじめ中国やフィリピンなど日本の占領地では、
多数の女性が集められ従軍慰安婦にかりだされた。

こうしたことから、日本軍はしだいに住民の抵抗運動に悩まされるようになった。
中国・朝鮮やフィリピン・マレー半島・ベトナムなど、東南アジアの抗日運動は広がり
戦後の開放と独立を準備していた。日本の敗戦後、旧植民地支配者の軍と戦い
自力で独立を勝ち取り、結局、アジアにおける欧米の植民地は一掃された。

参考文献

日本史A 現代からの歴史(東京書籍)
詳説日本史(山川出版)
つかはらの日本史工房 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/index.html

富岡、来季は楽天で

野口獲りにノムさん出馬宣言

≪土谷、富岡を獲得≫楽天は1日、中日・土谷鉄平外野手(22)と
西武・富岡久貴投手(32)を金銭トレードで獲得したと発表した。
両選手は3日から宮崎・日向キャンプに合流する。
土谷は00年ドラフト5位で中日に入団。昨年の日本シリーズに代走で5試合に出場した。
富岡は94年ドラフト1位で西武に入団し、広島―西武―横浜でプレー。
今季は1軍での登板がなかったが、中継ぎとして期待される。


良かった良かった。野村監督はスピードのある投手が好きらしいし、きっと出番があるはず。

母親毒殺未遂の高1少女、タリウムを薬局で購入

母親毒殺未遂の高1少女、タリウムを薬局で購入

とんでもない話だと思うのだが、敢えてその上を行くシャレにならない話を振ってみよう。

親殺しの事件というのは、被疑者の年齢によって印象が左右される。
今回の事件に限らず、中学・高校生が親へ危害を加えると大抵の場合、
新聞では「無謀高校生狂った果実」(こち亀96巻91ページより)というような見出しがつく。
「無謀」はともかくとしても、「心の闇」という言葉が必ず出てくる。
要するに、進路を巡って口論になった末の事件とか、
何かしら親との葛藤が引き金になっているとされる。

逆に、私のような20歳を過ぎたのが親に危害を加えればどうなるか。
報道は「生活態度を巡って口論となった末…」といったところか。
世間の目は「いい年して何をやっているんだこのバカは」が大半の意見だろう。
つまり、「思慮分別がつくであろう年齢にもなって…」という非難のみである。

今回の事件に限らず、(未成年者の)親殺しを正当化するつもりは全くないが、
どうせ、今回の事件も「心の闇」や「動機なき殺人」の一言で片付けられるのではないだろうか。

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