GLORY DAYS

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増井の12球

埼玉西武ライオンズの浅村栄斗選手は、今では「そういうこともある」と思っている。

8回裏である。西武、終盤の攻撃。ツー・アウトニ、三塁のチャンス。スコアは4ー3。
西武は1点の差を追っている。長打が出れば逆転、短打でも同点になる。
ゲームの流れは、追いあげ、攻めたててきた埼玉西武に向いている。

マウンド上には北海道日本ハムファイターズの増井がいる。増井は長打を警戒していた。
浅村に対する1球目、埼玉西武ベンチは浅村に何のサインも送っていない。
増井の投球は外角の高めを突き、しかも球威があった。
浅村が懸命に出したバットは、ボールをとらえることができない。
増井の投げた球はバットの先に当たった。
打球の行方を見て猛然とホームベースに走りこんできた三塁ランナーの熊代は、浅村が抑えられたと気づく。

熊代聖人の話
「バッター浅村が打席に入ったとき、なんのサインもでませんでした。ツー・アウトですからね。
 増井さんはテンポよく投げてくるタイプでしょう。そういう先入観があったものだから、
 浅村は初球から打つかもしれないという気にはなっていた。
 ホームに向かって走ってったところで浅村がアウトになったのがわかりましてね。
 もう、いっぺんに元気がなくなってしまって……」

その1球がバッター・ボックスにいた浅村の頭の中にいつまでもひっかかっているのだ。

浅村栄斗の話
「増井さんの投げたあのボール、あれはホントに意識的に投げたのか……。
 信じられんのですよ。見逃してもいい球やった。高めの球ってのは、はずされると思ってみるもんです。
 ピッチャーも、はずすために速球を投げるんです。ところがストライクゾーンやった。
 真っすぐです。それだけに信じられない。ホントに狙ったんなら、そりゃもう、大変なことですよ……」

しかし、間違いなく増井の投げた球は浅村のバットを封じたのである。
偶然ではなく、である。
西武ドームはほとんど西武ファンで埋まっていた。西武ファンはここで落胆しなければならない。
しかし、このシーンに吸い込まれた人間の気分は落胆というものではなく、むしろ興奮だった。
濃密に急回転する時間の中には興奮しかない。
「抑えました! 増井が浅村を討ち取ってスリー・アウト、チェンジです!」
実況中継のアナウンサーはマイクを握り締めた。
その1球は、このイニング、8回裏に増井が投げた球の中では12球目に当たる。

2011年8月27日。
西武ドームで埼玉西武ライオンズVS北海道日本ハムファイターズの公式戦第一六戦が行われている。
この日までの戦績は西武が5勝、日本ハムが9勝、引き分けが1つ。
ファイターズは初回に4点をあげ、勝ちに向かっていく。
西武は8回裏に中村の3ランホームランで反撃を開始し、日本ハムを追いあげてきた。
点差はわずかに1点である。

増井がこの日、西武ドームのマウンドに登るのは、その直後、
8回の裏、ワン・アウト・ランナーなしという局面だ。
ピッチャー斎藤佑樹をリリーフしたものだった。
予定の行動だった。

試合が始まる頃、増井はそっとベンチを出てブルペンに向かった。
それもまた増井のいつもの行動だった。セットアッパーに徹するようになってからできあがった習慣である。
時折り、ドッと歓声が球場に響き渡る。誰がヒットを打ったのか、三振をしたのか
試合の流れが見えるなかで増井は筋肉を緊張させる。
そして自分の出番が一秒一秒近づいてくるのを、肌で感じとっていく。
8回、増井がマウンドに上がるとき、すでに照明灯のスイッチが入っている。
ゲームは増井を軸に動き始めた。
点差はわずか1点リード、増井が取るべきアウトは2つ――。
「この場面で出て行けば」と増井は考えていた。「もう明日は僕の出番は無いだろう」

それから約七分間、増井は西武ドームのマウンドに立ち尽くし、"善人"と"悪人"の対角線上を激しく往復する。
そして、その間に増井の1球1球をめぐって、西武、日本ハム両ベンチ、
そしてグラウンドに立つ選手のあいだを様々な思惑が交錯した。
野球とは、あるいはこの様々な思いが沸き立ち浮遊し交錯するところに成立するゲームであるのかもしれない。
その渦のさなかにいて、増井はあるシーンを見るのだ。

増井がマウンドに歩いていく。
斎藤佑樹の5勝目がかかっているという気負いはとりたててなかった、と増井は語った。
増井は、再び、こんなふうに考えているのだ――。
(この場面で投げれば、明日の出番は無いだろう)
左バッター・ボックスに5番打者の坂田が入った。マウンド上の増井には気負っているような感じはまるで無かった。
キャッチャー鶴岡のサインにうなずき、力を込めて第一球を放り込んだ。真ん中の真っ直ぐだった。
一球目から坂田は打ちにいったが、打球は力の無いレフトフライになった。
ツー・アウト・ランナーなし。
西武ドームのグラウンドは擂鉢の底のように見える。急勾配のスタンドの溜息が、球場全体に広まった。
しかし、ドラマは誰にも分からないほどゆっくりと始まっていた。増井の1球目はコンダクターのタクトだった。
その腕が振りおろされたとき、最終楽章はアンダンテで動き出す。

右バッターボックスには6番のフェルナンデスが入っている。
1球目は外角低めへのスライダー。様子を見るために投げた。フェルナンデスは見送っている。ボール。
2球目もバッテリーは同じ球を続けた。フェルナンデスは冷静に見極めていた。0-2。
3球目、外角だが、やや高めのコースに真っすぐ。ファール。
4球目は3球目よりも高めに投げた。ボール球だったが、フェルナンデスは空振りした。2ー2。
5球目、外角低めに真っすぐ(ファウル)、
6球目、ここでバッテリーはもう一度外角にスライダーを投げた。三振を取りに行くためである。
しかし、フェルナンデスはこれをどうにか見送っている。これで2-3。
7球目、キャッチャー鶴岡のサインにうなずき、力を込めて外角にストレートを投げた。
この一球が、両チームに大きな波紋を投げかけたきっかけの一球になろうとは、
両軍ベンチにとっても増井自身にとっても、まったく思ってもみないことだった。
次の瞬間、この一球は、両軍ベンチ、スタンド、テレビやラジオの前のファンをも巻き込んで、
緊迫この上ないシーンへと招待する一打となったのだ。
打球はセカンドを守る今浪の差し出すグラブの横を抜けて行った。
ツー・アウト・ランナー一塁。同点となるランナーが出た。渡辺監督は代走に俊足の熊代聖人を送った。

フェルナンデスの話
「アウトコースのストレートだった。初球からストレートを狙っていた。バットは上手く出たと思う。
 ストレートがきたら、何でも振ろうと思っていた。上手く打てたんじゃないかな。
 予定通り熊代が代走に出てきて、彼がホームインしたら同点なんだと思って、一塁で交代するとき「ガンバレ」と声をかけたんだ」

増井は別のことを考えていた。
「フェルナンデスには、7月17日のときの印象がありました。こっちが1点リードしているときの8回でした。
 ツーアウト・ランナーなしで出てきたフェルナンデスが、カウントは忘れてしまったのですが、
 上手くライト前にヒットを打ちました。さすがだと思いましたよ。
 長打を狙わないで次の打者につないだんですから。その時の記憶が残っていたんでしょうね。
 それでセンター前に打たれても、計算の範囲内でした。」

左バッターボックスに7番の秋山翔吾が入る。
初球は外角低めの真っすぐだった。秋山は打ってきたが、ファウル。
2球目はフォークボールを投げたが、抜けて外角高めに浮いた。見送られて1-1。
3球目、真ん中低めの真っすぐを秋山が思い切りスイングすると、
打球はジェットミサイルもどきの衝撃波を残して、ライトフェンスを直撃する二塁打になった。
ツー・アウト二、三塁。西武に思わぬチャンスがめぐってきた。西武ドームは熱狂する。
実況中継のテレビのアナウンサーも、思わず絶叫調になる――
「ツー・アウト二、三塁です! ライオンズにとっては大きなチャンスです!」
テレビの解説者はしごく当然のことを重々しくいった――「ここで浅村に一打出れば、逆転できるケースですね」

これでツー・アウト二、三塁。
増井はベンチを見た。ブルペンにも目を走らせる。誰も投球練習を始めていない。
同時に、武田久が戦況を見つめているのも増井は見ている。
(それでいい…)
増井はそう思った。それにはいろいろな思いがこめられている。
「このドタン場に来て、次の投手は用意しないということですね。
 そうか、僕は完全に信頼されているんだと。瞬間、そう思いましたよ。
 ブルペンが動かなかった。何のために僕がここまでやってきたのかといえば、久さんにつなぐためですからね。」
それが話題の新人、斎藤佑樹の5勝目がかかった試合で、4-3とわずか1点だけリードしている側が、
セットアッパーとして自他ともに認める投手をたてて8回裏の守備につき、
大ピンチに襲われているときのマウンド上の投手の心理の一断面だった。
増井はそのシーンをそういう角度から見てしまっている。
それは試合が終わって斎藤佑樹の5勝目が確定したあとも、彼の心に深く根付いている。
あれはそういうことなのか。僕しかいないんだ――端的にいってしまえば、そういう思いである。

その自信を得たうえで、増井はツー・アウト・ランナー二、三塁という状況に対処するのだ。
バッターボックスには浅村が入っている。

増井は思わざるをえない。――ここまできてマウンドから降ろされるはずないじゃないか。誰が僕に代わるというのか……。
「ここで代えられるくらいなら、最初からセットアッパーなんて任されるはずがないんだ」
増井はそう思った。
そういう思いを持ち、またその角度からブルペンの動きを見ている増井には、当然のことながら自負心が脈打っている。
その自負心が一年間のセットアッパー生活を支えてきたといってもいい。
マウンドを守るとは、つまりそういうことである。
自らを恃むことによってしか、投手は投手たりえない。
このシーンのなかでブルペンの動きに目を向けた増井は、自尊心を強固なものにしている。
「それでいい」と増井がつぶやくとき、その内側にはプライドを守られた投手の納得と、
安心、そして喜びにも似た感情がないまぜになって、在る。
しかし、考えてみれば、増井は誰によって勇気づけられているのだろう。
誰にもブルペンに行かせないと決めたのは梨田監督である。

その梨田監督はこのシーンでこう考えている。
「仮にあの場面で1点とられたとしましょう。9回表の攻撃は同点で迎えることになります。
 9回表に勝ち越せなければ、9回裏に投げさせるのは宮西、勝ち越せば武田久を投げさせる。
 ここであわてて次のピッチャーにウォーミング・アップを命じなくても、間に合うのです」
9回の表に入ると、日本ハムは7番のホフパワーから攻撃が始まる。
ふつうに考えれば、西武は9回の頭から投手を代えてくるだろう。梨田監督にはそういう計算もあった。
8回の裏、西武の攻撃のとき、時計の針は午後四時三〇分にはまだ遠い。
ゲーム開始から三時間も経っていない。
東日本大震災の影響で、公式戦の場合、試合開始から三時間半を経過したあと新しいイニングに入らないという規定があった。
あと四十五分。このまま西武が追いつけなければ、試合は何事も無かったかのように終わるのだ。
梨田監督はそのことを考えているわけだ。
ブルペンで誰も投げていないのを見て、マウンド上の増井が「それでいい」とつぶやいているのを、増井は知らない。

再び、梨田監督
「そこまでは考えませんでしたね。また逆に、あえて他のピッチャーにウォーミング・アップさせないことで増井を発奮させようとも、
 あの場面では考えなかった。ただ一つ、9回裏になったときのことを考えていただけですからね」
実務的である。このホットなシーンで梨田監督はひたすら実務的であろうとしている。
それがゆえにマウンド上のピッチャーのエモーショナルな感情の揺れが見えない。

ツー・アウト・二、三塁。8回裏。シーズンの佳境に差し掛かった試合に投げる話題の新人、斎藤佑樹。
斎藤佑樹に勝ち星が付くか付かないかが決まってしまうような濃密な瞬間を、
十数メートル離れたところで共有しながら、その立っている位置によって思いは異なったベクトルを描きあっている。
増井も梨田監督も、その熱気と緊張の中で、お互いの見つめているものが全然別個のものであることに気づきようもない。

さて、増井である。
ツー・アウト二、三塁になったとき、増井はこう思っている。――(面倒なことになった。斎藤の勝ち星を消せば僕は悪者になる。)

渡辺監督は険しい表情でベンチに座っている。
渡辺監督の話
「勝てると思っていた。当たり前だろ。ツー・アウトだけど、ランナーが二人いるんだ。勝てるはずだ。」
そして、どっしりとベンチの奥に座っている。じっとして、落ち着いている。
増井は、その渡辺監督を見ている。(落ち着いているな。勝てると思っているんだろうな)――と思いながら見ていた。
増井がそんな心境にあるのを、渡辺監督は気づきようも無い。バッター・ボックスに浅村が入った。
増井はいう。
「もしかしたらゼロで切り抜けられないかもしれない。ただ、いっそきれいに散りたいと思いました。
 内野安打やワイルドピッチで点が入るのはものすごく嫌でした。むしろガツンと打たれたい。
 打てるなら打ってみろという感じですね。ホームランを打たれてもいいじゃないか。
 中途半端に終わるのが一番嫌だったんです」
そう思い込んだところで、増井は浅村に対して完璧なピッチングを展開してしまうのだ。

話題のルーキーの勝ち星がかかっているという緊張感と、
それを背負っているという自負心が彼らにそういう気分を起こさせるのか。
だとするならば、プレイヤーたちは、ビッグ・ゲームに心理的にあやつられている。
主人公は1球1球、局面を変えていくゲームそのものなのではないか。
増井は「冷静だった」という。梨田監督もまた「冷静だった」といった……。
ゲームはコミュニケーション。ギャップのなかでドラマまで形作ってしまう。
増井は集中力を取り戻している。

浅村がバッター・ボックスに入った。
四球だと満塁、一打打たれると同点、長打だと逆転というケースに、増井の"野球脳"はフル回転した
(ヒットだと同点か。斎藤の勝ち星を消したら格好がつかないな。
 かといって、いまの調子じゃハッキリしたストライクだと打たれる。
 いや、ストライクどころか高めなら少々のボール球でも持っていかれてしまう。
 よし。ここはひとつ、イチかバチかやってみよう。真っ直ぐでアウトコース高め、
 それもストライクゾーンからボール半分か、一個外れる球だ。そしてゴロを打たせる。
 見逃されたらおしまいだけど、今の僕にはそれしかない。)

増井は考えた通りのボールを投げ込んだ。浅村は若かった。
手を出したくなる高さの球がやってきたので、ストライク、ボールを判断する前に思わず手が出てしまった。
打球は力の無いショートへのゴロが飛んだ。浅村は必死の形相で一塁に頭から飛び込んだ。
虚しいヘッドスライディングだった。
西武ファンの溜息と共に8回の攻撃は終了した。

それは8回裏に増井が投げた12球目のボールである。
その間、増井はマウンドの一番高いあたりから降りようとはしなかった。
マウンドは増井のためにあった。
浅村が気圧されるようにショートゴロに倒れると、増井はマウンドを歩いて降りた。
静かに歩いてベンチに戻ると、その周囲に選手が集まりハイタッチシーンが展開された。
増井には、この日25個目のホールドが記録された。
試合後にそれを聞いた増井は穏やかにほほ笑んだという。

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