GLORY DAYS

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

桂園時代~米騒動

1904年の日露戦争後、鉄道や港湾の拡充をかかげる立憲政友会が、
地方の有力者の支持を得て勢力を伸張し、1906年には西園寺公望が桂太郎に代わって内閣を組織した。
しかし1907年の恐慌によってこの政策が行き詰まると、官僚勢力と貴族院を背景とする桂太郎に再び政権を譲った。(第2次桂内閣)
桂内閣は内務省を中心に地方改良運動を推進して、
町村の租税負担力を強化し、国家の基礎を固めようとした。
一方、桂は政友会に対抗するために政友会以外の政党の合同に期待したが
政友会の反発を買い、1911年、再び西園寺に内閣を譲った。

この頃から日本の財政は非常に悪化しており、行政・財政の整理は避けられない状態にあった。
しかし、陸軍は治安維持も兼ねて朝鮮に駐屯させる2師団の増設を政府に迫った。
(1910年に日本は韓国を併合(植民地化)していた。)

政党に基礎を置く内閣と軍部が対立するなか、美濃部達吉が政党内閣を支持する憲法論を発表し、世論は立憲政治の大切さに目覚め、陸軍の横暴に怒りを覚えた。
このようななかで、1912年年末師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して
陸軍大臣が単独で辞表を天皇に提出したため、西園寺内閣は退陣に追い込まれた。
(軍部大臣現役武官制の制度により、軍部が陸軍大臣を推薦しなければ内閣が組織できなかった。)

西園寺の後を受けて、内大臣と侍従長(天皇を補佐する役目)を兼任していた桂が
第3次桂内閣が組織されたが、宮中と政治の境界を乱すと非難の声が上がり
立憲国民党の犬養毅や立憲政友会の尾崎行雄を中心に
「閥族打破・憲政擁護」を掲げた運動が全国的に広がった。(第一次護憲運動)

1913年2月、第3次桂内閣は総辞職した。その後には海軍大将・山本権兵衛が組閣し、
政友会が与党となったが1914年に海軍のシーメンス事件(ドイツの兵器会社からの軍艦購入をめぐる汚職事件)により総辞職した。

陸軍師団の増設を求める元老(げんろう:非公式に天皇を補佐する役職)や陸軍は
言論界や民衆の間で人気のある大隈重信に内閣を組閣させ、政友会に打撃を与えようとした。
大隈は陸・海軍と内閣との調整をはかり同年末に衆議院を解散した。
1915年に行われた総選挙では、立憲同志会らの与党が政友会に圧勝し
師団増設案が議会を通過した。

1916年に大隈内閣が総辞職すると、軍人で長州出身の寺内正毅が超然内閣を組閣した。
立憲同志会など前内閣の与党各派が合同して憲政会を結成してこれに対抗すると
寺内首相は1917年に衆議院を解散した。
総選挙の結果、立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://glorydays.blog2.fc2.com/tb.php/124-0d14590b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。