GLORY DAYS

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

米騒動~政党内閣の成立

第一次世界大戦による経済発展で、工場労働者の増加と人口の都市集中に伴う
米の消費量の増大や、1918年のシベリア出兵にからむ米の買占めにより米価が急騰すると
米騒動が全国的に広がった。
政府は米騒動の鎮圧に軍隊を出動させたが、内閣批判の声が高まり総辞職した。

米騒動という形での民衆運動の盛りあがりに直面して、元老山県有朋が
政友会のもつ統合力に期待したため、1918年に衆議院の第一党である
立憲政友会の総裁・原敬を首相とする内閣が成立した。

原敬は華族でも藩閥でもない初めての首相だったため、
平民宰相と呼ばれ国民各層から歓迎された。
原首相は、鉄道の拡充や高等学校の増設などを、積極政策に基づき進める一方で
憲政会や立憲国民党などの野党が要求する普通選挙法案を
時期尚早であるとして退け、小選挙区制を導入し、選挙権の納税資格を
直接国税3円以上に引き下げ、有権者を拡大したにとどまった。
(それまでは、25歳以上の男子・直接国税10円)

しかし、1920年の戦後恐慌により積極政策が行き詰まったことや
立憲政友会の関係する汚職事件も続発して(東京市会疑獄事件など)
世論の不満が高まるなか、1921年原首相は暗殺された。

1924年に清浦奎吾が貴族院議員を中心に内閣を組織すると、
憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の3党(護憲三派)は超然内閣の出現に反対し、
政党内閣制・普通選挙の実現を主張して憲政擁護運動を起こした。(第2次護憲運動)

政府は、政友会脱党者が組織した政友本党の支持を得て総選挙にのぞんだが、
護憲三派の圧勝に終わり、清浦内閣は総辞職した。
この結果、衆議院第一党の憲政会総裁の加藤高明が3党の連立内閣を組織した。

加藤内閣は、1925年に納税額にかかわらず満25歳以上の男子に選挙権与える
普通選挙法を成立させたが、その一方で「国体」(天皇が統治する国家の在り方)の変革や
私有財産制度否認を目的とする結社の組織や参加者を罰する治安維持法を制定した。
(共産主義者を取り締まるため)

立憲政友会が陸軍の田中義一を総裁にむかえて、革新倶楽部と合併すると
護憲三派の提携は崩れ、加藤内閣は憲政会の単独内閣となった。
その後、加藤の病死によって1926年に憲政会総裁の若槻礼次郎が内閣を組織した。

1927年に若槻内閣が台湾銀行救済問題で退陣すると、政友会総裁の田中義一が内閣を組閣し、野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結成した。

これ以後、1932年に犬養毅内閣が倒れるまで、政友会と民政党の総裁が
交互に内閣を担当する二大政党制時代が続いた。(憲政の常道)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://glorydays.blog2.fc2.com/tb.php/125-bdce5bac
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。